江戸時代の佐倉藩で1783(天明3)年に起きた大規模な百姓一揆を調べた著作『飢饉の村を救うー天明3年佐倉藩の百姓一揆』がまとめられました。

筆者は八千代市在住の小林詔三さん(77)です。

『飢饉の村を救うー 天明3年佐倉藩の百姓一揆』筆者の小林詔三さん
著書を持つ小林詔三さん

公開 2022/05/03(最終更新 2023/02/03)

ソバ

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大手新聞社の記者を続け、定年延長も終わったので、地域の話題を取材したいと、地域新聞様にお世話になっています。明るく、楽しく、為になる話題を少しでも分りやすく紹介したいとネタ探しの日々です。子どもの頃から麺類が好きなのでペンネームにしました。

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洪水、浅間山噴火などの資料も読み独学

小林さんは定年後、八千代市郷土歴史研究会に入会。

地元の歴史に興味を持ち、調べてきました。

コロナ禍で同会が休止した頃、たまたま八千代中央図書館で「図書館を使った調べる学習コンクール」を紹介されます。

応募を目指すことにした小林さんは、約1年間かけて多くの資料を読み、独学。

テーマに選んだのは江戸時代の佐倉藩で起こった百姓一揆です。

その成果がA4判40頁にまとめられています。

『飢饉の村を救うー 天明3年佐倉藩の百姓一揆』
画像も交えた詳細な記録
「飢饉の村を救う」表紙
「飢饉の村を救う」表紙

暴動なき珍しい一揆の成功要因を分析

佐倉藩は江戸の守りの拠点で、譜代大名が藩主を務めました。

しかし1763(宝暦13)年に幕府から日光山輪王寺の修復を命じられると藩財政が悪化。

さらに洪水、浅間山噴火などの災害が多発して米の収穫高が激減します。

食糧難に苦しんだ農民は1783年12月に決起。

ですが武器を持って戦うことはせず、「年貢を米ではなく貨幣で収めること」を藩に要求しました。

農民の要求は10両を50俵と計算すること。

藩はこれを認めず、交渉の結果、10両を27俵と計算することで決着したといいます。

一揆は現在の八千代市や佐倉市を舞台に起こり、首謀者は処罰されました。

通常は死罪が下されるところですが、この時は牢に監禁する永牢が最も重かったのです。

農民の打ち壊しなどの暴動がなく、貨幣による年貢の分割払いを要求したのも珍しいことでした。

この百姓一揆は佐倉惣五郎の一揆から約130年後に起きましたが、小林さんは「優れた指導者たちのリーダーシップと、百姓たちの信頼関係が一揆成功の要因だったのだろう」と分析します。

地元八千代と全国で栄えある賞を受賞

作品は「第6回八千代市図書館を使った調べる学習コンクール」で八千代中央図書館館長賞を、全国大会の「第25回図書館を使った調べる学習コンクール」でも「優秀賞・雑誌の図書館 大宅壮一文庫賞」を受賞しました。

日光山輪王寺、都内なども視察し、その土地の人から話を聞いたりもしてまとめた力作。

巻末には、30以上もの参考文献の一覧表も。

小林さんは「この著作をきっかけに子どもたちや住民の皆さんが地域の歴史に興味を持ち、大切に感じてもらえるようになればうれしい」と語ります。