かの有名な江戸幕府の老中・田沼意次が幕府の財政再建のための経済施策の一つとして命じた塩田開発工事。
市原でも巨大な塩田が開発されました。
公開 2022/07/02(最終更新 2022/07/01)

ボノ
横浜から千葉に移り、ちいき新聞でライターを始めました。取材は歴史物・行政関係が多め。今は卓球を週に7回、ジムで泳いだり、ピアノ教室&弾き語りのライブをやったりと、とても充実した毎日を楽しく過ごしています!
記事一覧へ塩田作りに適していた市原の海岸
市原は温暖な気候と遠浅の砂浜であったため、17世紀半ばごろから五井海岸付近では塩作りが行われていました。
1782(天明2)年、意次の意を受けた江戸金杉村庄左衛門と坂本村又兵衛が、八幡村から君塚村までのおよそ26万坪の塩田開発の許可を得ます。
工事は天明4年から6年の3年間行われ、費用はおよそ今の貨幣価値で5、6億円かかったといわているそう。
金杉浜塩田の製塩方法は、遠浅の海を堤防で仕切り、何カ所かに水門を設け、満ち潮になるとその門から塩田に海水を入れます。
海水は天日と風で水分が蒸発して濃い塩水となり、砂には塩の結晶が。その砂と塩水を桶に入れると塩分の濃いかん水が得られます。
それを土釜に移し、さらに煮詰めて塩を作りました。
富を生んだ塩田は現在は工場地帯に
開発当初、巨大な利益を生んだ金杉浜塩田。
しかし、わずか4年後に大風雨(台風)により壊滅的な打撃を受け、その60%が海に戻ってしまいました。
その後復旧工事が行われることはなく、細々と昭和戦前まで塩田は続けられたとのこと。
金杉塩田は五井金杉から飯香岡八幡宮周辺を除く村田川まで、中心地は今の市原ふ頭付近に当たります。
1958(昭和33)年から始まった埋め立て工事で、市原の海岸線は4キロほども遠くなり、工場地帯となった現在は、海岸一帯に塩田が連なっていたのを想像することは難しいですが、「金杉川」「五井金杉」の地名がその名残を残します。

開発者「庄左衛門」の墓は今も五所の共同墓地にあり、製塩業に携わった人々の子孫も市内に在住しています。
この塩田をはじめ、市原の貴重な歴史を後世に語り継いでいきたいものです。
取材協力/「八幡史学館」講師・山岸弘明氏
参考文献/『金杉浜塩田資料集成』(高澤恒子、山岸弘明)