小さい頃、畑や畑道で素焼きの面や丸くて模様のある不思議な物を見つけたことありませんか?

それは江戸からやって来た歴史の語り部たちだったかも。

公開 2023/04/15(最終更新 2023/04/14)

ボノ

ボノ

横浜から千葉に移り、ちいき新聞でライターを始めました。取材は歴史物・行政関係が多め。今は卓球を週に7回、ジムで泳いだり、ピアノ教室&弾き語りのライブをやったりと、とても充実した毎日を楽しく過ごしています!

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長く愛されてきた泥面子の魅力

泥面子 面子・面模・鬼面
<面子(めんこ)・面模(めんがた)>鬼面(きめん)

江戸時代の享保年間には「泥面子(どろめんこ)」を使った大人たちの賭け遊び「面打ち」が大人気でした。

あまりの人気の加熱ぶりに幕府が禁止令を出したほどだったとか。

その泥面子、大きさは1〜3cm・厚さ1cm程度、粘土を型押しし、素焼きにして造られていました。

歌川広重の「名所江戸百景」でも隅田川と今戸の釜の煙が上がる様子が描かれているほど、江戸時代当時は浅草・今戸の焼き物は有名で、泥面子も多く製造されていたといいます。

泥面子で賭け事をした大人たちは、地面に穴を掘ったり、枠を描いたりして、そこに泥面子を投げ入れ、外れたら取られてしまうなどして遊んでいたのだそう。

泥面子は明治の頃までありましたが、材料が鉛(有毒が判明、使用中止となる)になり、次いで紙や木になり、次第に廃れていきました。

しかし、それがなぜ、畑などで見つかるのでしょうか。

畑にあった泥面子が語ってくれる事

泥面子 面打・面丁 歌舞伎 市川團十郎
<面打・面丁(めんちょう)> 歌舞伎 市川團十郎(だんじゅうろう)

千葉県千葉市在住の田中和夫さんは小学生だった昭和の時代、自宅の畑で泥面子を見つけます。

そして、「いつ頃どこで生まれたもの」なのか知りたいという興味から泥面子だけではなく、同じ畑にあったさまざまな年代のおはじきや土器片なども集めるように。

調査範囲も周辺地域へと拡大する中でそれぞれの製造年代や造られた理由などを推測していきました。

泥面子の拡散に関し従来から伝わる理由には主に2つの説がありました。

一つは畑の肥料として江戸から買われてきた下肥(しもごえ)に泥面子が混入していたという説、もう一つは江戸から千葉や埼玉の畑に運ばれて堆肥(たいひ)にされた江戸ごみに泥面子が混ざっていたという説でした。

しかし、田中さんはこれらの説では説明しきれない多くの事実を見つけ、現在は自身がたどり着いた泥面子の拡散ルートやその意味を展示会場や博物館、郷土資料館などを訪れては、対面で伝える活動を続けています。

江戸の世相を伝える泥面子のモチーフ

泥面子は、面打(面丁)・芥子面・面摸(面子)に大きく分類されます。

また、「江戸町火消の誕生」「江戸歌舞伎の人気者」「江戸相撲の力士たち」「黒船来航のペリー提督」など豊富な図柄を通して江戸時代の出来事を忠実に伝えてくれる泥面子は、まさに歴史の語り部。

人から教わる勉強や学習だけではなく、自身で発見する歴史、語り部から聞き取る歴史の価値を再確認するきっかけにもなるでしょう。

泥面子 芥子面 大黒天
<芥子面(けしめん)> 大黒天
泥面子 土人形 芥子面 七福神、達磨
<土人形・芥子面(けしめん)>七福神、達磨(だるま)