物語や歌舞伎にもなった地元の「二大スター」を祀る将門口ノ宮(まさかどくちのみや)神社。

関東の英雄である平将門(たいらのまさかど)と義民として知られる木内惣五郎(きうちそうごろう)が合祀(ごうし)されています。

2人のドラマティックな物語をご覧あれ。

公開 2023/10/17(最終更新 2023/11/13)

ちいき新聞ライター

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平将門は最強の怨霊といわれ、逸話多く

将門口ノ宮神社鳥居
将門口ノ宮神社鳥居

大佐倉駅から程近い所にある将門口ノ宮神社。

祀(まつ)られている一人の平将門(諸説あるが903年生〜940年没)は平安時代中期に関東地方土着の有力な豪族の子として生まれました。

将門の父の死により親族間で土地を巡る戦いが起こり、将門が勝利。

この頃朝廷側の貴族と豪族の間には、高い税(米など)を取ろうとする貴族側と、高い税を納めさせられる豪族側の対立がありました。

将門は不満を抱える豪族たちの親分として、朝廷側の役人を次々と追い出し、関東全域を占領、関東独立を宣言します。

将門を討つための朝廷軍が派遣され戦(いくさ)となりますが、将門が討たれて、関東の豪族たちの夢は2カ月で破れたのです。

木内惣五郎は熱い心の「義」の人

木内惣五郎は江戸時代初期4代将軍徳川家綱(いえつな)の時代、現在の印旛郡にあった公津(こうづ)村の政治を取り仕切る農民の代表(名主(なぬし))でした。

その頃公津村では凶作が続き、さらに農民たちは利根川の洪水の被害で疲弊していたと言います。

見かねた惣五郎は農民たちを救うため当時禁じられていた、将軍へ直接訴える手紙を渡しました。

その罪で惣五郎夫婦と4人の子どもは処刑されましたが、農民たちの命を救った「義」の人なのです。

将門口ノ宮神社社殿

資料乏しいがロマンあふれる地元の偉人

平将門は死後、怨霊として恐れられ数々の伝説を生んでいます。

祟(たた)り神は祀ることで将来降りかかるであろう災いから身を守ろうとする日本古来の信仰の形です。

ですが将門が恨みを抱いたかもしれない相手は朝廷側です。

将門口ノ宮神社では「平将門と木内惣五郎の偉業を讃え」と境内の石碑に刻まれています。

地元の人たちは二人を偉人として迎え、その偉大な力で自分たちを守ってもらいたいと神社にお祀りしているのです。

関東の地で散った二人の偉大な勇者を偲(しの)びにお参りしてみてはいかが。(取材・執筆/福)

※由来などは諸説あり、定かではありません。

将門口ノ宮神社社殿
将門口ノ宮神社社殿