医療関係の企業でクリエイティブディレクターとして働きながら、我孫子市内で開催される数々のイベントの音楽ステージでプロデュースを手がけ、自らも音楽家としてギターやウクレレの演奏、指導も行っている宮内俊郎さん。
30年間、我孫子に住み活動する中で、ご自身が感じるまちの魅力や、積極的にまちづくりに関わる理由、音楽の力などについてお話を伺いました。
公開 2023/12/25(最終更新 2024/03/25)

野中真規子
フリーライター歴20年。取手市出身。2021春に東京から我孫子市に移住し、手賀沼周辺の水辺や豊かな緑、遺跡、史跡、ユニークな個人商店などに囲まれた生活を満喫中。スパイスと魚影、日本語ROCK、RAP、民族的デザイン、音楽、祭り好き。https://makikononaka.com/
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「何もない街」から、文化的背景や住民の人間性に魅力を感じて
「我孫子アートな散歩市」や「あびこ桜まつり」「新春竹宵」など市内で開催されるイベントの音楽部門でのプロデュースや、ギター、ウクレレなどの演奏、指導などの活動をしている宮内さん。街づくりにも積極的に関わり、さまざまな市民団体を経験、所属してきました。老若男女問わず周囲の人たちからは「トッシー」の愛称で親しまれています。
宮内さんは兵庫県出身。結婚当初は東京の都立大学駅近くに住んでいましたが、妻の実家が我孫子市内にあったことから、93年に我孫子に引っ越してきました。
「その頃の我孫子駅前は今と全然違っていて、コビアン2の建物の場所には古くからの洋品店が残っていました。駅から八坂神社あたりまで歩いて、坂の上から手賀沼方面の住宅街を見下ろした時に、何もない街だなーと感じたことを覚えています」
しかしその後、宮内さんが感じる街の印象は大きく変わっていきました。
「子どもの習い事や塾を調べるうちに、素晴らしい教育方針のところが見つかったり、大人の哲学教室に参加して、我孫子で大正時代に活動していた白樺派文人のことを学んだりするうちに、いい街に引っ越してきたなーとしみじみ思うようになりました。地域の人の人間性にも惹かれましたね。周りに畑をやっている人が何人かいて、自分でも野菜を作り始め、それは今も続いています」

ファミリーコンサート開催がきっかけで、我孫子での音楽活動をスタート
宮内さんの我孫子での音楽活動のスタートは2000年頃。それまでも学生時代などにバンド演奏はしていましたが、社会人になってから演奏とは距離を置いていました。
「40歳前後の時は仕事のストレスを抱えていて、音楽を聴くことやギターを弾くことが癒やしになっていました。ある時リビングで何気なく『ライブやろうかなー』と言ったら、妻が茶化すかなと思いきや、『やれば』と背中を押してくれたんですね。それで数家族の合同で、コホミン(湖北地区公民館)でファミリーコンサートを開催しました。わが家は娘が歌を歌って、息子がピアノを弾き、私がギターを演奏。ファミリーコンサートはその後、アビスタホールなどでも数回開催しました」
ファミリーコンサートで演奏の喜びを再確認した宮内さん。その頃好んで聴いていた森山直太朗の「夏の終わり」という曲が我孫子の風景にピッタリだと感じたこともあり「我孫子でもっと演奏したい」という気持ちが募ったといいます。
「老後、音楽友達が欲しいという気持ちもあって。ギターを持ってウロウロし出したら、音楽好きの市内の友人がどんどん増えていきました」

東日本大震災後のチャリティライブで、多くの市民と関わるように
我孫子市内では今でこそ年がら年中、あちこちのお祭りやイベントで音楽の生演奏を聴くことができますが、2000年代初頭にはそのような機会はほとんどなかったとか。
そんな中で宮内さんは音楽仲間とともに活動の場をどんどん拡大。地域の環境整備をボランティアでやっている団体が作ったマーマレードジャムを公園で販売する隣で、コカリナとギターで演奏するなど個人的な活動をするほか、我孫子手づくり散歩市(現 我孫子アートな散歩市)や市民のチカラまつりなどでの音楽ステージのプロデュースを担当したり、市議選の応援活動でギター弾き語りしたことも。
2011年の東日本大震災の後は、チャリティライブをスタート。被害の大きかった陸前高田市は、もともと我孫子市と消防団同士の連携があったこともあり、震災後には我孫子から数多くのボランティアの人たちが駆けつけました。
「甚大な被害を報道で知り、僕も音楽で何かできないかと考えました。陸前高田とつながり続け、震災・防災に対する意識を後世につなげるため、市内の音楽好きな方々に集ってもらうという趣旨で、『A-LINK』(我孫子とリンク、の意味)というプラットフォームを設立。我孫子ショッピングセンターで、コロナ前まで毎年3月初旬にチャリティライブを開催し、子どもや学生、社会人の演奏参加をプロデュースしました。それを機に、さらに多くの市民と関わるようになったんです」
2014年にはFacebook ページ「我孫子 音楽」を立ち上げ、地域の音楽家の活動をオンラインでバックアップするようにもなりました。

音楽はコミュニケーションツール。使うほどに人とつながり、笑顔が生まれる

「イベントは運営のために頑張っている人が他にもたくさんいて、僕は人と人とをつないでいるだけ」と宮内さんは言いますが、横のつながりを大切にしてきた宮内さんの存在は、我孫子の今に大きく影響していると思います。宮内さんが音楽で積極的に街づくりに関わる背景には、自身が音楽に救われた経験がありました。
「長年仕事をしてきた中で、やっぱり月曜日が憂鬱(ゆううつ)だと思うような時期もありました。でも地域で音楽をやるようになってからは忙しくて、仕事のことで悩む暇がない。音楽が僕の心の薬になったわけです。普段は医療に関する仕事をしていることもあり、心身の健康に人一倍関心がありますが、音楽はWellnessを保つのにすごく役立っていると思うのです」
自らの音楽は「用の美」を追求している、とも宮内さん。 用の美とは、一時期我孫子に住み「民藝運動」を提唱していた柳宗悦の言葉で「工芸品は鑑賞物ではなく、道具として日常に使われてこそ美しい」という考え方を表すものです。
「同じように僕の音楽も道具、コミュニケーションツールだと思います。音楽を聴く、奏でるだけではなく、人前で音楽を演奏するとか、音楽イベントをやるなどしていろんな人と触れ合うと、自分も相手も楽しくなって、笑顔にたくさん出会えますから」
2017年春にスタートした男女四人組の軽音楽バンドB-Chordsほかいくつかの音楽ユニットでの演奏もコミュニケーションツールとしながら、宮内さんは人とのつながりをますます広げています。
「震災後、音楽を通じてたくさんの市民の方と知り合えたA-LINKの「A」、好きな音楽を表現するB-Chordsの「B」に続いて、今後の展望は「C」。Children=未来を担う子ども達の、情操教育や自信の育成のお手伝いがしたい。そしてCare=人々の癒やし、心身の調律や健康維持・増進をサポートしたい。さらにCommunication=交流活性化による楽しい街づくり、近隣見守りなどを、いろんな人たちと連携しながら促進していければ」
恩送りの精神で活動し、1つ1つの出会いを大切に
大正時代には白樺派の文人らが移り住み、盛んに文化芸術を発信していた我孫子の地。その後も多くの市民たちがこの街の自然や歴史、文化を守り、発展させてきた背景があります。
「僕が好きなフランスのことわざに『少しずつ鳥は巣を作る』というのがあります。急ごしらえするよりも、1つ1つ素材を組み合わせてコツコツ作ってこそしっかりしたものができる、という意味です。街づくりも一緒で、急に何かを変えようとするよりも、みんなが1つひとつの出会いを大切にしながら、それぞれ好きなことでじっくりと関わっていったら、我孫子もより素敵な街になっていくんじゃないかな。先人が築いてくれた街を、僕らがさらに楽しくして、新しい人たちに譲り渡していければ、と思っています」
宮内俊郎さん
YouTube
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