現在のJR下総中山駅の北側に、かつて広大なレジャーランドがあったのをご存じですか?

公開 2024/07/31(最終更新 2024/07/24)

ちいき新聞ライター

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中山駅北口に東京ドーム4個分の遊園地

群芳園(ぐんぽうえん)は1912(明治45)年4月、中山駅(当時)の北口に開業しました。

入場料は大人10銭、子ども5銭(※)。

※1銭は現在の約200円

園内に入ると木橋が12基連なり、中ほどにひときわ鮮やかな朱色の太鼓橋「報徳橋」がありました。

池や小山がバランス良く配置され、美しく咲き競う花々や枝ぶりの見事な盆栽が目を楽しませたとのこと。

演芸場、一度に1,000人が飲食できる宴会場、旅館、プール、湯屋などがあり、昼夜問わずにぎやかでした。

運動場では当時人気の自転車競走も行われ、大いに盛り上がったとか。

小栗原の大富豪が農民救済のため開園

群芳園を造ったのは葛飾村小栗原の大富豪・齋藤甚之輔(甚之助の表記も)です。

豊後(大分県)から渡ってきて12代目。

先祖は「豊後屋」の名で造り酒屋でしたが、甚之輔の頃は農業、商業を営む地域の有力者になっていました。

甚之輔は大正天皇の学習院時代の同期だったことから、明治天皇による習志野演習観閲の際に休息場所を提供したことも。

屋敷は現在の千葉銀行中山支店の辺りにあったといいます。

群芳園建設のきっかけとなったのは、1911(明治44)年に小栗原地区を襲った潮津波でした。

塩害で米、野菜は全滅。

小栗原の農家は大きな危機に見舞われます。

この窮状を見た甚之輔は群芳園建設を思い付き、中山駅北口に所有する土地1万坪(東京ドーム4個分)を提供する傍ら、被災農民を建設要員として雇用し救済。

群芳園開業後も園芸部、種苗部、食堂売店部、余興部などの係員として100人以上の雇用もつくり出しました。

しかし、大正初期に同園の旅館で起こった若い男女の心中事件を引き金に、人気にも陰りが。

放漫経営もたたって大正時代中頃には、あっという間に閉園してしまったといいます。

大正時代に華々しく誕生した群芳園も、長期間放置され、戦後にはお化け屋敷といわれるほど荒廃し、「つわものどもが夢の跡」となっていたとのことです。(取材・執筆/マット)

※絵はがき写真は全て船橋市郷土資料館提供

群芳園の入り口風景(『東葛飾郡案内記』より)
群芳園の入り口風景(『東葛飾郡案内記』より)
群芳園のガイドブック『収芳』の表紙(船橋市西図書館提供)

【参考文献】『収芳』群芳園編(1912年)、『小栗原誌』成瀬恒吉著・本中山地区自治会町会連合会(1985年)、『葛飾誌』成瀬恒吉著(1988年)、『東葛飾郡案内記』神田未緑著・川奈部書店(1914年)、『絵はがき―写真に残された明治〜大正〜昭和―』船橋市郷土資料館編(2005年)、『目で見る船橋の100年』滝口昭二監修・郷土出版社(2007年)