大学時代、憧れのプロレスラーに会いにアメリカへ。
その時、「訪ねてみたら」と勧められたのが一人の日本人レフェリー。
島田さんの人生を変えた運命の出会いでした。
公開 2025/09/27(最終更新 2025/09/26)

人気レスラーの名勝負をジャッジ!

1986年、マイアミ大会でプロレスのレフェリーデビュー。
K‒1や全日本プロレス、1997年から始まった総合格闘技イベント「PRIDE」で、数々の歴史的名勝負の審判を務めます。
しかし、浮き沈みの多い格闘技業界で、徐々にキャリアチェンジを考えるように。島田さんに第二の転機が訪れます。
厳しいレフェリーから笑顔の園長へ


「海外の若者はとにかくエネルギーにあふれている。みんなを食べさせたいという家族愛や、自分も大きくなりたいという気持ちがすごく強い。頼もしいなと感じていた」と島田さん。
英語を含め、幼児からの教育の重要性に気づき、40代後半で保育士免許を取得。
学童保育の運営を経て、2018年に市川市、20年には船橋市に幼保園を設立。


キャプテン(総園長)として子どもたちと共に日々を過ごしています。
「卒園した子どもたちが何十年後かに、こういうことやりたいんだけどアイデアない?などと言いに来てくれたらうれしいですね。いろんな紹介をしてあげたり。サケのように戻ってきてくれるのが今から楽しみ」。
目を細めて島田さんは語ります。

島田裕二さんに聞きました
―レフェリーを始めた経緯を教えてください
アメリカに行く時に「プロレスの神様」といわれたカール・ゴッチの娘婿で日本人レフェリーのミスター空中(そらなか)さんという人を紹介されました。
帰国後、アメリカの大学に入ろうとお金を貯めて行ったんですけど、語学力がなくて入れなくて(笑)。
2年くらい専門学校などに行ってやっと点数が上がってきた頃、空中さんの調子が悪くなり「(日本の)団体を手伝ってくれ」と言われて帰国することに。
その1カ月後に、「お前、レフェリーやれ」という言葉を残して亡くなってしまったんです。
その言葉を胸にこれまで続けてきました。

―島田さんの運営する幼保園の特徴は?
バスケやレスリング、ダンスなどスポーツを中心に、外部の大会や地域のイベントにも積極的に参加しています。
完全アウェーな緊張感を子どもたちや先生たちにもどんどん体験してほしいと思っています。
―レフェリーが幼保園の仕事に役立っていることは?
いつも自分の近くに必ずジャッジしている自分がいます。
試合の時もそうなので、あまり熱くならない。
子どもを怒る時も怒るふり。
感情的にはならないですね。
夫婦げんか以外は(笑)。
Instagram/@judgeshimada
写真協力/コンパス幼保園 市川校