佐倉駅近くの佐倉城は城址公園として広く利用されていますが、酒々井町本佐倉にも佐倉の名を冠した城跡があります。本佐倉城跡(もとさくらじょうあと)歴史ストーリーの始まりです。
公開 2026/02/12(最終更新 2026/02/09)
千葉氏(うじ)を名乗って900年目の年
標高約36mの台地に築かれ、面積約35万㎡と巨大な本佐倉城跡。
東山のビューポイントから北を望むと、はるか遠くに筑波山が見えます。


今はのどかな風景が広がっていますが、戦国時代、城下町は繁栄を極め、城内では陰謀が渦巻いていました。
関東地方の戦国時代の始まりといわれ、28年にわたった享徳(きょうとく)の乱(1455年〜)では、千葉氏も一族同士で争い、千葉氏宗家が滅亡し、現在の千葉市にあった千葉の館は炎上します。
家督は庶流の岩橋輔胤(すけたね)が継承。
輔胤は本佐倉城を築城、千葉氏の本拠を本佐倉城へ移しました。
本佐倉城は、印旛浦に接した交通の要衝として栄え、約100年9代にわたり下総の政治、経済、文化の中心へ発展しました。
乱世の中、役目を終えた本佐倉城

16世紀以降、小田原の北条氏※の勢力が拡大。
一方千葉氏は当主の早世、暗殺など、千葉一族内での激しい権力争いに伴う事変などが重なります。
8代邦胤(くにたね)は北条氏政(うじまさ)の娘を妻に迎えますが、邦胤は29歳の時に城内で家臣によって暗殺。
その後、氏政は、自分の息子の直重(なおしげ)を邦胤の娘婿に送り込み、直重は千葉氏9代を継承。
千葉氏の乗っ取りに成功します。
その直後の1590年、豊臣秀吉が、天下統一達成のために動き出しました。
早くから秀吉の小田原征伐(せいばつ)に向けて準備を進めていた氏政でしたが、両者の力の差は歴然。
千葉氏は北条氏に味方して敗れ、本佐倉城は廃城となりました。


「築城以来一度も戦場にならず、廃城時にも大きな破壊行為を受けなかった」「その後も開発の手を逃れ、ほぼ戦国時代の姿を保っている」ことなどが注目され、1998年9月には、国指定史跡に。
現在も保存整備が進められている文化財です。
足元に気を付けて散策を。
(取材・執筆/福)
※小田原の北条氏は鎌倉の北条氏と区別するため後北条氏と呼ばれますが、本記事では北条氏と記載
※歴史には諸説あります