船橋で280年ほど続く伝統行事「大仏追善供養」が、今年も2月28日(土)に開催されます。その由来は、かつて漁師町で起こった悲劇でした。
公開 2026/02/21(最終更新 2026/02/16)
船橋は幕府に特権を許された漁師町
江戸時代初期から半ばにかけて、船橋はよく魚の捕れる漁師町としてにぎわっていました。
将軍家に魚介を献上する「御菜浦(おさいのうら)」として、魚介を献上する代わりに広大な漁場の占有を許されていたといいます。
その範囲は、東は鷺沼村(現在の習志野市)沖、西は高谷(こうや)村(現在の市川市)から堀江村(現在の浦安市)沖の澪(みお)(※)まで、扇形に広がっていたとのことです。
1703年に東海・関東を襲った大地震のため、船橋沖の海底地形が変化し、不漁が続くようになると、魚介の献上は中止され、金納に切り替わりました。
その後、この漁場を巡って、近隣漁師たちとの紛争が増えていったそうです。
※澪…船の通れる水路
大仏追善供養の始まり

不動院の石造りの大仏(釈迦如来坐像)は、江戸時代中期の1746年に建立されました。
同年8月にあったとされる津波(高潮という説も)で犠牲となった漁師や住民たちを供養するためといわれています。
漁場紛争はその後も深刻化。
1824年、船橋村と猫実(ねこざね)村(現在の浦安市)が占有漁場の境界を巡って係争中、猫実村と東宇喜田(ひがしうきた)村(現在の江戸川区)の漁船多数が一橋家の幟(のぼり)を立てた船の指揮の下に境界内に侵入し、これを妨げようとした船橋村の漁師と激突しました。
この時、船橋の漁師が一橋家の幟を奪い、同乗していた侍を殴打したため、漁師総代3名が牢に入れられ、1名が牢死、1名は釈放後、間もなく亡くなりました。
船橋村の村人は、命を懸けて漁場を守ってくれた総代たちに感謝の気持ちを込めて、津波の犠牲者と併せて供養するようになったと伝えられています。



供養では、炊き上げた白飯を一握りずつ大仏の顔や肩、胸に盛り上げるように付けます。
これは、牢内でひもじい思いをした総代たちの霊を慰めるためといわれています。
(取材・執筆/福)
日時/毎年2月28日
場所/不動院
住所/千葉県船橋市本町3-4-6
問い合わせ
電話番号/047-431-2041
船橋市漁業協同組合