今年は千葉開府900年の節目の年です。そもそも千葉のまちを開いた千葉氏とはどんな人たちなのでしょう。
公開 2026/03/20(最終更新 2026/03/17)
鎌倉幕府成立前の千葉氏
千葉のまちの始まりは1126年の6月1日に、桓武(かんむ)天皇のひ孫高望王(たかもちおう)(後に平高望)の子孫、常重(つねしげ)が、現在の緑区大椎(おおじ)町から中央区亥鼻(いのはな)付近に本拠地を移し、地名である「千葉」を冠して千葉介(ちばのすけ)常重と名乗ったこととされています。
常重の嫡子、常胤(つねたね)が家督を継ぎましたが、1159年に起こった平治の乱で源義朝(よしとも)が敗れ、主従関係を結んでいた常胤も相馬御厨(そうまのみくりや)(現在の柏市・我孫子市付近)や橘荘(たちばなのしょう)(現在の千葉県東庄町(とうのしょうまち)付近)の所領を失いました。
平清盛(きよもり)が全盛を極め、東国武士が不遇の時を過ごしていた時代といわれています。
頼朝(よりとも)の挙兵と常胤の決断
伊豆に流されていた義朝の子、頼朝が1180年に挙兵し、平家方と戦をします。
大敗を喫して舟で安房に逃れてきた頼朝に、常胤はいち早く味方をしました。
この時、頼朝34歳、常胤63歳。
「吾妻鏡」(鎌倉幕府作成の公式記録)には、頼朝が真っ先に常胤を頼ってきたことに感動した様子が残っています。


しかし、京都の中央政界は清盛に牛耳られ「平家にあらずんば人にあらず」と言われた時代です。
対する頼朝は、「頼朝が平家を討とうなぞ、ねずみが猫を捕るようなものだ」と嘲笑する者もいたほどです。

常胤は、不遇の時を終わらせ、新たな活躍の場を得るために、源氏の大将として経験の浅い頼朝を担ぎ、平家と戦って多くの功績を挙げました。
そして、千葉氏は鎌倉幕府の中でも屈指の御家人となったのです。
常胤のチャレンジスピリットを、今を生きる私たちが受け継いでいきたいですね。
(取材・執筆/福)
※歴史には諸説あります