蘇我の町の歴史は古く、古来人々が住み続けてきました。
ここには地元の人たちが大事にしている「甘酒どんどん」という小さな祠があります。
そこは「龍姫の祠」とも呼ばれますが、起源年詳細などは分かっていません。

公開 2021/03/16(最終更新 2022/03/08)

ボノ
横浜から千葉に移り、ちいき新聞でライターを始めました。取材は歴史物・行政関係が多め。今は卓球を週に7回、ジムで泳いだり、ピアノ教室&弾き語りのライブをやったりと、とても充実した毎日を楽しく過ごしています!
記事一覧へ「蘇我」という名前はどこから?
「蘇我」という地名の由来はさまざまな説がありますが、その一つに、蘇我氏の部民がこの地を開拓し、名付けたといういわれがあります。
また、日本武尊が海路で東征に出掛けた際、暴風雨になり、妻の弟橘姫が竜神の怒りを鎮めるために海に身を投げました。
その時、共に入水した侍女を地元の人が救い、その女性は蘇我氏の娘だったので、蘇我氏が感謝して神社を造り、「蘇我比咩神社」と名付けたことからともいわれています。

町の名前はその後変遷し、江戸時代には蘇我野村、明治になり曽我野村へ。
そして再び蘇我野村になり、明治の町制施行で蘇我町となり、その後現在の蘇我に至りました。
しかし地元には「曽我野」と名の付く郵便局が今も残っています。
そしてこの地域にある祠「甘酒どんどん」にも古い言い伝えが残っています。
今も受け継がれる「甘酒どんどん」
「甘酒どんどん」の起源年詳細は不明ですが、ある戦いで敗れた一族が女性や子どもと当地に逃げて来ました。
その頃はまだ葦の生い茂る所があり、そこに一族は隠れました。
しかし、追手が迫ってきた時に、乳飲み子が咳をして見つかってしまい、一族は乳飲み子まで全員殺されてしまったといいます。
これを見ていた里人はかわいそうに思い、祠を建て霊を祭りました。
子どもが病気にかかった際に、この祠に甘酒を添えて祈ると治るといわれ、長年子どもの健康を守る神としてあがめられ、親しまれてきました。

祠は最初木製でしたが、老朽化したために近年、地元の人の手により石造りのものに。
木製の鳥居も建て替え、蘇我比咩神社に寄進しました。
さらに、鳥居が一昨年の台風で破壊されたため、これも地元の人によって今年2月に色鮮やかな鳥居が再建されました。
住民たちは「この祠は昔から住民たちが守ってきた町の宝です。自分たちの代でそれを受け継ぎ、これからの世代に引き継いでいけるように大切にしたいと思います」と語ります。
地元の人たちの善意と信仰で受け継がれてきた貴重な祠、大切に見守っていきたいです。(取材・執筆/ボノ)
甘酒どんどん
場所/千葉県千葉市中央区蘇我2-15
アクセス/蘇我2丁目の東武ストアの奥の出口から右へ。道なりに進み、左に曲がると赤い鳥居が見えてきます。