江戸時代後期より鎌ケ谷宿の繁栄を見守り続けてきた大仏さん。
昨年11月、その調査が行われました。

公開 2022/02/25(最終更新 2022/06/09)

大仏さんは駅前で人々を見守っている
新京成線鎌ヶ谷大仏駅を降りると、車の往来が激しい道に出ます。
木下街道です。
江戸時代初期に行徳河岸から木下河岸を結ぶ脇往還として成立し、江戸と下利根地方をつなぐ最短路として利用されてきました。
ここ鎌ケ谷はかつて鎌ケ谷宿で栄え、全長約500mの鎌ケ谷宿には7軒の旅籠があったといいます。
鎌ケ谷大仏が造立されたのは安永5(1776)年のこと。
鎌ケ谷の富豪福田文右衛門が、先祖の供養のために江戸神田の鋳物師多川主膳に造らせたもので、開眼供養には50人以上の僧侶を請じて行われたといいます。
第二次世界大戦の金属供出からも免れました。
所有者や地域の人たちに、大仏さんを守ろうとする大きな熱意があったからでしょう。
鎌ケ谷大仏は、鎌ケ谷市制になった翌年の1972(昭和47)年に市指定文化財第1号になっています。
245年ぶりに調査 鋳造工程などを確認
鎌ケ谷市文化・スポーツ課の後野さんに調査実施の経緯を聞くと「鎌ケ谷大仏の調査に来た大学教授から、大仏が中心よりずれていると指摘されたのがきっかけです。土台の石組みにも亀裂などが見られたため、併せて状態を調査することになりました」とのことです。
「大きな要因として東日本大震災による可能性があり、所有者の方と相談し、大仏を持ち上げて内部も調べることになりました」
11月17・18日、大仏をつり上げて仮の台座に安置し、内部を確認。
「ずれた原因は大仏本体の前後にあったずれ防止の突起の前部分が切断されていたこと。引っ掛かりがなくなって左右に動いたことが分かり、鋳造工程も確認できました」と後野さん。

成果については、詳細を展示予定といいます。
あらためて大仏さんを見上げていると、木下街道を行き来した人々は広大な野原の中での大仏の存在を認めてきたに違いないと思えました。
芭蕉が『鹿島紀行』で通った時はまだありませんでしたが、江戸からは多くの文人や墨客が訪れ、紀行文や絵画を残しています。
周辺を散策してみてはいかがでしょうか。(取材・執筆/江梨)
※問い合わせ
電話/ 047-445-1528
鎌ケ谷市文化・スポーツ課